コミットログは英語で書くべきかという話

昨日同僚とコミットログを英語で書くべきかという話になり、自分でもあんまり考えてなかったんだけど、人と話して少し整理できたのでまとめておこうかと書いてます。

まず、今自分はどうしてるかというと、基本的には英語で書くようにしています。書き始めたきっかけはなんとなくで、英語苦手だけどちょっとチャレンジしてみようというくらいのノリではじめました。
オープンソースコミュニティを見渡すと、日本のソフトウェアでも英語でかかれていることが多く、それが一般的な作法である、という程度の理解をしています。
一方で、会社内のプロジェクトで基本的に日本人しかいないのに、わざわざ英語で書く必然性はないという話もあります。コミュニケーション手段なので伝わらなければ意味がなく、わざわざ不得手な言語でやりとりする理由はない、と。

自分は、プロジェクト等で英語を採用することで著しく不利益になることが見えている、と言うことでなければ基本的に英語で書くべきかなと思ってます。
一番大きな理由は、世の中のソフトウェア開発、特にオープンソースコミュニティでは基本的にそのように行われているからです。そして、会社で採用する技術、やり方を基本的に世の中の標準に合わせ、どこでも通用するようにすべきと考えているからです。会社で優秀な人はどこに出ても優秀な人であってほしいし、優秀な人が会社にジョインしたときはその能力がすぐ活かせる場所であってほしいです。

ここ数年、国内だけで仕事していても英語を書かなければいけないという機会が増えてきてると思います。グローバルなクラウドサービスを利用する機会が増えてきているのですが、サポートとお話をしなくてはいけない場合、その言語は必然と英語になってしまいます。それもあって日常的に英語を書くということに慣れておきたいという気持ちもあります。

どう書けばいいかわからない、という人もいるかと思います。みんな同じ悩みにあたるらしく、「コミットログ 書き方」等で検索すればいろいろ記事が出てきますので、目を通すといいかと思います。

anond.hatelabo.jp

個人的に気に入った記事はこれ。コミットログの例を集めて羅列してあります。自分もコミットログの大半は「Add ...」「Modify ...」「Remove ...」「Fix ...」で始まってますね。

postd.cc

qiita.com

github.com

このあたりも。

THE IDOLM@STER MOVIE~輝きの向こう側へ!を公開初日に見てきた

劇場版の制作発表があったのが去年の2月のライブ。それから約一年の月日を経て、ついに封切となった劇場版アイマス。舞台挨拶付きのチケットを手に入れることが出来たので、見てきました。

ざっと1回見てきた感想をば。まだ受け取り切れてない劇中のメッセージがいっぱいありそうで、何回かは見に行きたいですね。

以下ネタバレ含む。

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波戸さんの引退試合、ブルーカード新年会、新体制発表会

1/18、ニッパツ三ツ沢球技場波戸康広引退試合が行われました。Jリーグ2連覇を成し遂げたメンバーを中心としたマリノス All Starsと、天皇杯優勝を最後に消滅した横浜フリューゲルスのメンバーを中心とした波戸Friends。どちらもそうそうたるメンバーが集まりました。

…まぁ、今年一発目のチケット購入したけど発券すら出来なかった試合になったわけですが…。とりあえずTVKで録画中継やってたからそっちで改めて見ましたが、試合終了間近の波戸さんのハットトリックが決まった瞬間に両チームの選手がベンチメンバーも含めて波戸さんのまわりに集まり、そのまま胴上げするシーンは泣きましたですよ。

その後は自分が所属するサポーターグループであるところのブルーカードのシーズン一発目のミーティングをかねた新年会。3時間にわたってのミーティングは白熱し、気がついていたらノートに取っていたメモが7ページを超えていました。いずれブルーカードというグループに関する話は取り上げてみたいと思いますが、サポーターグループという言葉からイメージされるようなものとは全然違う感じなんじゃないのかなあと思っています。今年どれだけ試合に行けるかはわかりませんが、またこのグループで一緒に戦っていけることがとても楽しみです。

日が変わって1/19はマリノス体制発表会。を見に行っている人のツイートを追っかけていました。オレンジの新ユニフォーム、中村俊輔の10番などいろいろなトピックはありましたが(GKユニ、あれ凄く女子中学生の体操服っぽい)、もう新シーズンが始まったんだなあと実感しました。

試合自体は2/22のゼロックススーパーカップから(アイマスライブにそのままハシゴ予定w)始まりますが、横断幕の準備や各地域のポスター活動など、サポーターのシーズンは一足先に始まるのです。いいシーズンのために、いい準備が出来るといいなあと思う次第であります。

天皇杯優勝

明けましておめでとうございます。はてなブログのアカウント取っていたことを今更ながら思い出したのと、マリノスの応援を始めてから初めてタイトルを取ったので、一つ区切りとして振り返りたくなったのです。

マリノス自体のことはJリーグ開幕戦を実家(岡山県津山市)でテレビ観戦し、なんとなく気にかける程度でした。当時中学1年生の自分。友達とサッカーゲーム的なもので遊ぶ際は(多分エポック社Jリーグエキサイトステージだったかと。多分ジーコサッカーではない)いつも横浜マリノスを使うとか、その程度でした。

その後大学進学で藤沢へ。まだスタジアムに足を運ぶことはなく、降格争いもナビスコ優勝も完全優勝もチャンピオンシップも、テレビの中の出来事。いやはやもったいないったらありゃしない。

転機があったのは2005年。友人に誘われてユベントスマリノスプレシーズンマッチを観戦したあたり。メインスタンドの席にのんびり座って見ていました。実際にサッカーの試合を生で観戦したのは初めてで、その時のマリノスのゴール裏がものすごく楽しそうに見えたのが衝撃的だったのを今でも覚えてます。それからホームゲームのチケットを買い、一人でゴール裏にひょこひょこ現れるようになり、声を出して応援するようになりました。この頃はまだアウェイに行くという発想自体がなかったなぁ。

そして迎えた2006年。忘れもしない3月25日の第5節浦和戦。横断幕事件の試合。もっとも横断幕の事の重さを自分が知るのはもう少し後の話。この試合は1-3で敗戦したのですが、この時に初めて、自分が今までしていたことは応援じゃなくてただ楽しく歌っていただけなんだということに気づいたのです。自分がサポーターという生き物になった瞬間があるのならば、多分この試合に負けた時がそれだったのでしょう。家に帰り、すぐにアウェイ甲府戦のチケットと交通手段を確保したのを覚えています。あと、次の試合は終了後にまっすぐ歩けずに声もろくに出ないくらいに飛び跳ねて声を出したことも。

その後応援場所をよりコアゾーンに近いところに移し、フラフラしているところを応援グループの中の人らしき人に声をかけられ、バンデーラに入り、横断幕の設置や撤収を手伝うようになりました。しばらく手伝った後、そのグループであるところのブルーカードに正式に参加することになりました。

個人的に忘れられない試合はそこから何試合かあります。2007年は横浜FC戦の敗戦と8月の8-1の試合。それに加えて4月のアモール歌いっぱなしのアウェイ日本平での清水戦やナビスコ準々決勝2ndレグのアウェイ等々力での川崎戦。ゴールキーパー直樹。

2008年は桑原さん最後の試合になった三ツ沢での新潟戦とリーグ終盤でのアウェイフクアリでの千葉戦かな。千葉戦はモチベーション的に残留争いの最中にいる千葉のほうが高い状態で、その中で気持ちで上回って勝った試合というのがあってよく覚えているのです。

2009年は三ツ沢での神戸戦5-0。CKのスーパーセーブからのカウンター山瀬功治のスーパーシュートが決まり、その後はお祭り。あとアウェイ等々力でのナビスコ準決勝2ndレグと日産での天皇杯川崎戦。タイトルを阻止された試合って言うのはどうしても忘れられずにいます。

2010年からは参戦できる試合数が減ってきたのですが、この年はやっぱり最終節直前の直樹戦力外が全てだった気がします。あのとき、戦力外にならずにマリノスに居続けてくれたら、というのはきっとみんな考えることでしょうし、考えてはいけないことでもあるのでしょう。

2011年から先は、自分にとっては3月11日の地震、そして8月4日の松田直樹の逝去から立ち直るための日々だったと思います。そして2011年12月29日の国立での京都戦、2012年12月29日の国立での柏戦。2008年と合わせて天皇杯準決勝で負け続ける日々。ナビスコカップと合わせても、自分はタイトルのかかった試合というものを一度も経験することなく、2013年を迎えました。

2013年に関しては、リーグ終盤の2試合。そして天皇杯ベスト8からの3試合が多分今後も記憶に焼き付いていくのでしょう。新潟が強かったから仕方がない、と無理に切り替えようとした6万人越えのホーム新潟戦。何が起こったのか、感情で理解できるまで相当な時間がかかった最終節アウェイ川崎戦。タイトルのかかった試合を戦える喜びと、それを失う絶望を知った2試合でした。毎日の通勤で武蔵小杉駅を通過する度に悔しさがこみ上げる日々でした。

そんな中でのアウェイ大分戦での延長勝利は格別でした。そしてホームでの鳥栖戦。ベスト4の壁を破る瞬間もまた格別。この2試合の勝利によって3度目のタイトルのかかった試合へ挑める権利を手に入れたわけです。

そして2014年1月1日。マリノスは21年ぶりの天皇杯を、自分は応援を始めてから最初のタイトルを手に入れることが出来ました。試合終了のホイッスルと同時に何かぞくぞくしたものが全身を駆け上がり、等々力のリーグ最終戦と逆で、頭で理解する前に感情が爆発しました。いやあ、初めて見たけど表彰式って遠くて見えないもんだなとw。そして起こる直樹コールで、自分は初めて直樹のために泣けたのではないかなあと思いました。こうして自分たちは2013年シーズンを笑って終われる唯一のチームとなり、また2014年に天皇杯を2勝する権利のある唯一のチームとなることが出来たわけです。

ブルーカードというサポーターグループに入っていて、いろんな人に支えられて、ようやくここまで来れたことを考えると、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。本当に仲間って素晴らしい。若い人たちが、本当に自分で何が出来るかを必死で考えて、それを形にしようとするのは本当に素晴らしく、自分が同年代だった頃を思い返すと本当に比較にもならないくらいに凄いなあと思っています。

2014年はどう過ごすか、何が出来るか。短いオフの間にでもゆっくり考えますかね。

 

新年のご挨拶など

1年ぶりに自分がはてなアカウント持ってること思い出した!

と言うわけで、今年もよろしくお願いしますですはい。

なんで1年と3ヶ月ぶりくらいに日記書こうと思ったかというと、まぁ新年らしく今年どうなるかなぁと考えていたらどうにも前向きな気分になれなくて、新年から暗澹たる気持ちになってきてしまったので、一度文章として整理して前向きな気持ちで明日の仕事始めを迎えようかと思った次第です。

去年一年を振り返ると、まぁそれほど良い一年でも無かったかなぁと。仕事に関しては社会人生活最大の自分リソースを突っ込んだにもかかわらず、だいたいが裏目に出てた感じ。そのこと自体にそれほど後悔はないんだけども。来年に関してはいくつか自分主導で進められそうなお仕事があるので、そこは全力でコミットしつつも、それ以外の部分は余計なことをせずに黙々とこなす感じで進めていきたいと思いまする。

一番の大きな出来事は祖父の末期癌の発覚かな。この辺知らされたのが6月頃で、自分にとっても初めてだったのでもうどうしていいやら(まぁ、出来ることは別段無かった訳なんだけど)分からずに相当混乱した記憶があります。10年前に癌で伯母を亡くしたときは、その事実を知ったのが本当に無くなる直前だったから、碌に考える暇もなかったのですよ。

今から言い訳する訳じゃないけど、6〜7月頃になんか自分が変な失敗をやらかしてたら、多分この出来事が遠因だったと思う。たった一人しかいない祖父が亡くなることもそうなんだけど、僕の(僕に限らず一般的だろうけど)本当に大切な母親が、その父親を亡くすという状況を考えれば考えるほど辛かったなぁ。

6月の時点で余命3ヶ月と言われてた祖父が亡くなったのが11月。よく頑張ったと思う。自分も、臨終の瞬間に立ち会うことが出来ました。これも初めての経験。その時の母親のそばにいられて本当に良かったと思う。まぁ、僕の自己満足ですけども。

母親の話ばっかりでアレなんだけど、それなりに祖父との思い出があるっちゃあったんだよ僕にも。色々言われるけど、たまにしか会わないけど、無条件で自分の味方になってくれる優しいおじいちゃんだったのですよ、僕の中では。孫っていうのはそういうもんだと言われりゃそうなんだけど、言うまでもなくその孫が僕な訳だしね。良い人間でも良い父親でも無かったのかもしれないけど、良いおじいちゃんだったとは思う。これは孫からしか言えないことだなぁ。

まぁそんな仕事のことと祖父のことと色々重なったりで、マリノスの試合はあんまり行けませんでした。ポスター活動も数えるくらいしか手伝えなかったかなぁ。義務感で応援活動をしたくないので、気が向かないときには素直にお休みさせて貰うつもりでいるんだけど、単純に良い感じに仕事とかその他諸々が入ってきて行けなかったなぁ。ただ、行けたとしても行ってたかどうかはあんまり自信がないです。暇があっても気が向かなかったかもしれないなぁと、去年に関しては思うのです。

人ごとみたいに言うのも何ですが、大量戦力外の知らせを受け、何が出来るわけでもないのにマリノスタウンに向かった自分の足と気持ちを見るに、僕がマリノスの応援をこのままフェイドアウトするってことはまず無さそうだなと思い、一安心しました。

さて、僕の人生の中でもまぁ悪い年だったとは思うけれど、全く良いことが無かったかと言えばそういう訳でもないです。

去年は友人の結婚式に2回招待されました。ひとりは研究室の後輩で、その縁もあって今同じ会社で働いてる人。ひとりは学部1年からの友人で、今もつきあいが続いている数少ない人。二人とも人間的には自分よりはるかに良く出来た人で、今でも何でこういう人たちと友人でいられるんだろうなぁと不思議でいます。結婚式の友人ってそんなに大勢呼べる訳じゃないから、自分がその中の一人だと思うととても誇らしい気持ちになれます。これが去年あったいいことのひとつ。2回だからふたつか。

もうひとつ。2007年の2月以来やってなかった自分たちのバンドのライブを4年弱ぶりにやりました。4年ぶりのくせに新曲もなく(全曲に多かれ少なかれのアレンジは施したけど)、淡々と演奏するだけになった感じではあったけど、やっぱり人前で演奏するのって気持ちいいなぁと改めて感じられました。あの感覚を思い出すと、次のライブは4年後って訳には行かないなぁ。

ああそうだ、去年あったいいことを一つ忘れてた。

けいおん!!大好き!!」

1期の全13話(テレビ放送分)とあわせて、全39話(テレビ放送分)をすべてリアルタイムでテレビ視聴したアニメはきっとこれが最初で最後だ。この作品に出会えたことが去年あったいいことだと、胸を張って言うね、僕は!りっちゃん見てると、自分が選んだ楽器がドラムだったのが必然のような気がしてくるね。

と言うわけで今年なんだけど、冒頭で書いたようにあんまり前向きな気分ではいられなかったんですよ。今やってる仕事が上手くいくためには自分の分が120%くらい上手くいって、その後に相当な周囲の努力と幸運が必要だと思っていて、有り体に言えば、その辺をあんまり楽観視出来ないと言うか、結構悲観的にしか見られないのが一番の原因かなぁ。

でもまぁ、自分にとっての今年って言うのはそれだけじゃないなぁと書いていて改めて思えるようになってきました。上手くいきそうな仕事の話だっていくつかあるし、去年今年と気心の知れた人が仕事仲間に加わっているし。

あと、自分の時間を仕事に割き過ぎると自分の成長が鈍化するなぁと思ったのが去年。なので今年は(社長にも怒られたので)出来る限りの休みを取りつつ、時間をかけない努力の仕方を模索して行ければなと思います。正直なところ、年が変わっても自分が変わるわけもないので、たいていのことは去年の延長線上にしかないかなと。年の初めに、「こうしたい」「こうありたい」って書いたって急にそれが出来るってことはまず無いわけですよ。とは言え、区切り区切りで書いておかないと「こうしたい」「こうありたい」という気持ちそのものが薄れてくるのかなぁと思ったりした次第ですよ。

そんな大それたことじゃないんだけど、もう少し自分に自信が持てるようになれたらいいなぁって思ってます。ここ数年の自分の自信喪失っぷりは端から見ていて本当に酷いなぁと思ってるんだけど、何せ自分が主体的に関わって上手くいった物事がほとんど無いんだから仕方がないかなぁ。その辺が大きく変わるとも思えないんだけど、気の持ちようで何とかなる部分があるならば何とか出来たらいいなぁと。もちっとメンタル鍛えましょうねという話なんだけど多分。仕事に関して言えば結構失敗を恐れずに失敗し続けているので、人間関係とかコミュニケーション周りもそんくらいのノリでやれば良いのにね自分。

ま、今年は今年でやりたいことがいっぱいあって、それを片っ端からやっていくのは去年と変わらず。その結果が成功と出るか失敗と出るかは、まぁ成功に寄せようと努力はするけれども、そこはなるようにしかならないよなぁとも思うわけで。去年に関してはその過程をあんまり残さなかったので、今年はそれをもうちょっと残そうかなぁと思います。Twitterのせいもあると思うんだけど、考えたこととかやったことって言うのを割とまとまったアウトプットとして去年は出さなかったのですが、結構それも自分の中での「何もやってない」感に繋がっているのかなぁと思うのです。その辺を積み重ねていって、もうちょっと自分に自信が持てたり、他人の評価と自己評価が少しずつ近づくように出来ればいいかなぁと。

ということで良い感じの時間になってきました。気合いなんて必要なときには常に入っているもんだから、「気合いを入れて」なんて言う気はさらさら無いのだけども。それでもこんな文章を書く程度には、何かをリセットして、心機一転したいところもあるのかなぁとは思います。

そんなこんなで、去年もいろんな人のお世話になりました。本当に感謝しなきゃ行けない人がいっぱいいるなぁと思うし、そのこと自体が幸せでもあるんだろうなと思います。今年も少しでも真人間に近づけるように頑張りますので、暖かく見守りつつ必要な際は手を貸していただけると助かります。ではでは、今年もよろしくお願いします。

webエンジニアの価値

終電の中、世の中的にwebエンジニアの価値ってどれくらいあるんだろうって考えてた。

自分と、自分の友人たちが使ってるウェブサービスを洗い出してみて、それに関わっているエンジニアの数を数えてみるとしよう。数えるのは面倒だから数えたつもりになろう。で、世の中のwebエンジニアの数を数えてみる。こっちも数えるのは面倒なんでなんとなく想像してみるくらいでいいだろう。いやぁ、きっとwebエンジニアの数が1/1000になってもきっと誰も困らないね!

まぁ、極論である。だが基本的には代わりはいくらでもいる、webエンジニアなんて代替可能なリソースにしか過ぎないって言うのはあながち間違ってないと思う。自分のその中の一人ではあるのだが。

そもそもそんな多種多様なwebのシステムが必要か、という話もある。ぶっちゃけいらんと思う。サービスで言えばgoogleだりyahooだったりamazonだったりyoutubeだったりニコニコ動画だったりはてな(ダイアリー|ブックマーク)だったりtwitterだったりwikipediaだったり、システムならMovableTypeとかtDiaryとか(yuki|puki|h|s)wikiだったり。それがあればwebユーザの99%は満足しそうな気がするわけで、世の中のwebエンジニアっての大半は残り1%のために存在しているような気もする。

もちろんシステムに限った話なので、これがコンテンツまで話を広げると一気に多種多様になる。webエンジニアなんて生き物はコンテンツにまで手を出して初めて価値があるんじゃないかな。専門職と言うよりは比較的広い視野で、世の中には何が必要なのか、どうやったら実現できるのか、どれくらいの見返りがあるのか、そういったことをトータルでこなした上で、世の中的に価値のあるコンテンツをきっちりと見返りを得た上で作ることが出来るんだろう。

webデザイナーがHTMLやCSS、場合によってはFlashなどが作れないと生きて行けないのと同様に、webエンジニアも企画立案・運用・デザインなどが出来ないと駄目なんだろうな。システムだけ作ってても生きて行ける!って人は多分エンジニアの前のwebって文字を取っちゃってる人だと思うw

正直、まだITバブルだと思う。web制作会社にwebページの開発を頼むところが、どれだけ真面目に費用対効果を考えているのだろう。もちろん即効性のあるものなんてほとんど無いとは思うけど、中長期的視野に立った上での費用対効果をちゃんと考えて発注しているのかどうかは甚だ疑問だ。まぁ、別にこっちゃそれでも構わないんだけど。未曾有の不況で多少は見直されるとは思うんだけど、まだwebの価値の招待を会社とかで決定権のありそうな世代が把握しきるのはまだまだ先だと思うんで、もうちょっとはITバブル的なものは続くんだろうと思う。10年くらいかなぁ、とは思ってるんだが。

さて、自分はどうしようか。

プログラマを突き詰める。企画運用が出来ないとwebエンジニアとして駄目だというなら、その本質的な部分に注力できるシステムを作る。そうして作られたのがMTやtDiarywikiのようなCMSであったり、Ruby on RailsSAStrutsみたいなwebアプリケーションフレームワークだったりするんだろう。そのどれもが、webエンジニアを楽にするものであり、純粋なwebエンジニアの寿命までの時計を進めるものであるのだろう。

総合的にコンテンツを作れるようになる。プログラミングは出来て当然のこと、その作るものを考えるところから出来るようになる。デザインが必要ならデザインもしなければならないし、人を使う必要があるならマネジメントもする必要がある。交渉が必要なら営業もしなくてはならず、それがお金を生み出すかどうかの経営判断も出来るようにならなければならない。

どちらを目指すか、というよりは多分両方やらなくちゃいけないんだろう。もちろん自分の力量に限界はあるだろうし、何でも自分で出来る訳も無い。双方を目指してそれ相応の努力をしていくうちに、適切な所には収まるんだろうなぁとは思う。が、まだその方向を決めるほど何もやり込んでないよなぁ、とも思う。

1980年代まで、プログラマはクリエイティブな生き物だったと思う。彼らは確固たる目的の実現のための手段としてプログラミングをしていたはずだ。今より遥かに専門性が高い中で、今のwebエンジニアより遥かにクリエイティブであろうとしてたと思う。自分も含む現代のwebエンジニアはその高みを目指さなければいけない。プログラマと言う職業を単純労働に貶めてはいけない。プログラマと言う生き物は一人でサービスを作ったり、一人で万人が喜ぶシステムを開発しなければならないのだ。

って考えてるうちに家に着いた。実は考えてる時間より、それをテキストに起こす方が時間がかかったり。実はもうひとつ、webサービス等の企画立案ってのはこうあるべきだよなーってのも考えてたんだけど、それはまた次の機会に。とりあえずもうちょっと役に立てる人間になれるように頑張ります。

ナビスコカップ準決勝2nd Leg 横浜Fマリノス v. 川崎フロンターレ

飯倉の、あの強い気持ちがチームをここまで引っ張ってきたのなら、その気持ちの強さで負けてしまうのも受け入れなきゃいけないんだろうな。勝利のために1分1秒がどれだけ大切かが本当にわかっていたからこその、露骨な時間稼ぎに対して切れてしまう愚行に出てしまったんだろう。

やっぱり安全なとこから見てて、ただプレイしてる選手に喜ばせてもらってるだけの奴が、勝てなかった腹いせに飯倉に不満を叩きつけてるのは見ていて悲しいし腹立たしいし許せない。

俺たちみんなで戦って、俺たちみんなで負けただけだろ。

自分は正直、胸張って一緒に戦ったって言えるほど何かが出来たわけじゃないんで、余計に何も言える事はないと思ってる。次がある、とか、切り替える、とか、何を言っても軽くなるだけだし、ほっといても次の試合は来週だ。

ただね。

この日の日産スタジアムは、確実に俺たちのホームだった。あのスタジアムの空気が常に作れたら、あれだけの勝ちたい気持ちを常に前面に出し続けられたら、あれだけの声をピッチに届けられたら、きっとマリノスの未来は明るいんじゃないかなぁと思う。

一応、対岸にいた友人へ。

ナビスコの準決勝でマリノスは敗れて、フロンターレは決勝へと駒を進めた。そして、その結果が決定した瞬間マリノスの選手は泣き崩れ、それでもマリノスのサポーターは声を上げていた。僕たちはその想いに張り合わなければいけない。マリノスが、自分たちが素晴らしいチームに敗れたということを誇りに思うために、決勝で絶対に負けてはいけない。彼らの想いと誇りを汚さないためにも、僕らの想いと誇りを高らかに掲げるためにも、11/3はタイトルを必ず手に入れよう。

川崎フロンターレVS横浜Fマリノス戦 - alpha’s blog

自分たちの勝ちたかった気持ちや想いが、対岸にまでいい影響を与えるのであれば、それはそれで嬉しくもある。試合結果だけじゃなく、想いの強さで張り合おうとしてくれてるのは、きっと互いにいい影響を与えるんじゃないかなぁとも思う。

ともあれ、お疲れ様でした。